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緑の研修生新聞 長野篇
「緑の研修生」ニューストップへ 研修生の声 長野県の森林と林業 森林の知識
山また山の長野県は、 北海道、岩手につぐ森林県。
木曽路はすべて山の中である。島崎藤村の小説、夜明け前の冒頭のとおり、深い緑に覆われた山々が私たちを迎えてくれた。木曽は全面積の9割が山林。長野県を象徴する森林地域である。昔から木曽の膨大な山林は木曽山と呼ばれ、秀吉や家康の直轄領として、また尾張藩の藩有林としてその森林資源は尊ばれた。木曽の名は、ヒノキをはじめとする木材産地として古くから全国に知られているところだ。この木曽はもとより、信濃の国、長野県は県全体が山のくにといえる。森林面積は北海道、岩手県についで全国第3位。保安林の面積にいたっては、北海道につぐ広さを有している。そんな財産を守り育てていこうと、県も平成14年度から「森世紀プロジェクト」を実施。県民主体の森林づくりへ、長期構想の策定や信州ふる里の森林づくり条例の制定を行っているほか、県産材のブランド化、建具職人のマイスター認定などを実施。うさぎおいし かのやま こぶなつりし かのかわ、と唄われた信州の里山、豊かな森林のひろがる風景を未来に手渡そうと、県民主体の森林づくりを進めている。森林で働く人の言葉からも、木のくに、森林のくにを大事に守っていきたい、という想いが伝わってくる。

 長野県の今年度の「緑の研修生」は70人。森林の担い手のプロをめざして奮闘中。
県土の80%を森林が占める長野県は、まさに森林県。その将来を担う「緑の研修生」70人が、いま実地研修を通して森林の仕事を学んでいる。研修先は、県内各地の森林組合や林業関係の民間会社など、研修生として雇用された24の事業体だ。6月には約2週間、塩尻の林業総合センターで集合研修を行い、基本技術やこころがまえ、作業の安全などを学び、いまは現場での経験を積んでいる。夏の作業は主に、植え付けて間もない苗木の周りの草や灌木などを刈り取る下草刈り。春には植え付けを経験しており、これから除伐、枝打ち、間伐などの作業を学んでいくことになるようだ。1年を通して森林の仕事を体験し、その流れを知り、林業のなんたるかを身につけることになる。といっても、一人前になるまで最低5年はかかるといわれているこの仕事。まだまだ道は長いが、プロの森林の担い手をめざしてがんばってほしい。これから森林・林業を再生していくうえで、働く人の減少と高齢化は大きな問題。65歳以上が全体の3割近くもおり、若い人がもっと森林に帰ってこなければ、荒廃が進む日本の森林は蘇らない。「緑の雇用事業」によって、働き手の減少にようやくブレーキがかかりはじめた。その意味でも、森林の未来を担う「緑の研修生」への期待は大きい。


 日本三大美林のひとつ、赤沢美林。
平安時代から広くその名を知られていた木曽のヒノキ。安土桃山時代には伏見城などの建材として利用され、江戸時代に入ると各地の城下町の繁栄とともに木曽の木々は大量に伐り出され、使われるように。そのため、木曽の山々は荒廃し、木々も少なくなってしまったという。そこで、木曽の山を管理していた尾張藩は厳しいおふれを出して保護し、山を甦らせた。この木曽の山々の大部分は、明治になると皇室の御料林となり、戦後は国有林として管理されている。このように尾張藩の保護以来、今日まで脈々と守られてきた木曽の美林。中でも上松町の赤沢地域は『林木遺伝資源保存林』、『植物群落保護林』として保護されているほか、良質な水をもたらす『水源かん養』と人々にやすらぎや潤いをもたらす『保健』の目的で、保安林にも指定されている。また、昭和44年には日本で初めての「自然休養林」に指定され、昭和57年には「第一回全国森林浴大会」が開催され、森林浴発祥の地としても知られている。樹木が発散するフィトンチッドなどの揮発性物質は健康にいい。ここには、樹齢三百年を超えるヒノキの森、澄み切った水の流れを楽しみながら散策できる8本の遊歩道コースがあるほか、森林鉄道にも乗車できるなど、大人も子どもも楽しめる豊かな森の別世界が広がっている。


 かつて木材の運搬に大活躍した森林鉄道。
古くから良材の産地であった木曽谷はまた、木材の運搬においても歴史の地。木曽川の流れを利用した『木曽式伐木運材法(きそしきばつぼくうんざいほう)』発祥の地であり、この運搬法は大正9年まで行われていたという。木材運搬の歴史は川から手押しトロッコ、そして大正2年から昭和にかけて建設された森林鉄道に引き継がれることとなる。大正4年に導入されたアメリカ製の蒸気機関車ボールドウイン号は、新たな木材輸送の先駆者として活躍。昭和25年にはディーゼル機関車が走りはじめ、輸送の効率を一段と高めたという。近年のトラック輸送に変わるまで、この森林鉄道は林業の発展と地元のくらしを支えてきたのだった。そして、昭和50年に多くの人々に惜しまれつつ、その役目を終えた。現在、赤沢自然休養林の中を走っているディーゼル機関車は、観光鉄道としてかつての森林鉄道が復活したもの。いまは木材ではなく、人々を乗せて渓流沿いを走っている。


 伊勢神宮20年ごとの遷宮、その用材は木曽谷から。
昔から、伊勢神宮は木曽のヒノキでつくられてきた。創建以来、20年ごとにお宮を移す遷宮が行われてきたが、南北朝時代の第36回(1380年)の御遷宮から室町時代を通じ、木曽のヒノキはその用材として用いられた。その後、一時中断はあるものの江戸時代中期、第47回(1709年)の御遷宮以来、木曽谷は岐阜県側の裏木曽とともに御杣山(みそまやま)であり、1回に13,800本に及ぶ最高品質の用材を供給しつづけている。赤沢美林はその御用材を供給する森林であり、来年6月には御神木が伐り出される御杣始祭(みそまはじめさい)が開かれる。その伐り出しは、古式ゆかしく斧のみで行われ、樹齢300年はあろうかという美しいヒノキが伊勢へと運ばれる。


 木の文化を支えてきた、木曽の五木。
ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ(別名ヒバ)、コウヤマキ。この5種類の針葉樹が木曽の五木である。木曽の山にはこの五木が特に多く、他の地方のものより質がよいといわれ、いずれも家の建築用材として昔から利用されてきた。天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利し、木曽谷が徳川尾張藩領となると、江戸城の築城をはじめ武家屋敷、造船などに盛んに用いられ、森林の伐採が急激に増加。森林資源が急速に失われていった。そのため、尾張藩は立入禁止や伐採の禁止など、徹底した保護制度を実施。五木は、地元住民も伐ることのできない禁伐木だった。「ヒノキ一本、首一つ」とまで言われる厳しいおふれ。その成果が、いま残されている木曽ヒノキなどの天然林なのである。このように、かつての禁伐木であった五木が、木曽の五木といわれるようになり、この地を代表する樹木となっている。ヒノキは乾燥、加工がしやすい、柔らかいわりに強度がある、狂いが少ない、香りがよいなど、建築構造材としてその優秀性は世界的に評価されている。サワラは、やわらかい材質で加工に適し、桶類や建具材として利用されている。ネズコは別名クロベ。材は焼いて磨くと木目が美しく浮き上がり、天井板、家具、下駄などに使われる。アスナロは、井上靖の「あすなろ物語」にあるように、「明日はヒノキになろう」の意。ヒノキに似た材であり、主に建材として用いられる。コウヤマキは日本特産の木で、材質は水に強く、風呂桶、建材などに適している。


 木の里は職人の里、匠の技が受け継がれている。
木曽路には地元の材を用いた数々の木工品がある。遠い昔から、代々受け継がれてきた伝統の技。薄く剥ぎやすいヒノキの特長を活かした曲物は、お弁当箱などに仕立てられ独特の木の香と清潔感が人気。また、漬け物や酒の樽、寿司桶、風呂桶、おひつなどもこの地の工芸品として有名だ。材には、木曽の銘木コウヤマキ、サワラ、ヒノキが用いられており、手入れをすれば何代も使える。さらに、ケヤキなどの原木を丹念に削り出すろくろ細工も、木曽の伝統工芸品。木目の美しい椀や盆は、山里のぬくもりにあふれている。そのほかにも漆器、お六櫛、下駄などなど、手作りならではの品々が魅了する。大量生産品では味わうことのできない工芸品。それを生み出す職人は、木のよさ、木の温かさを活かし、森林を活かす仕事人といえる。


 上伊那で取り組んでいる、木質バイオマスの利用。
長野県の南部に位置する伊那市の上伊那森林組合では、木材を伐り出した際に出る木の先端や枝葉部分の残材、松食い被害材、製材工場から出る残材などを有効利用していこうと、木質ペレット工場を昨年度に整備。また、ペレットストーブ68台を購入して、上伊那地域の小中学校や保育園などに貸し出し、木質バイオマスの利用拡大を進めている。この取り組みの背景には、地球温暖化を防ぐために森林資源の新しい使い道の開拓、積極的な活用を図って、森林のさらなる整備につなげていこうという考え方がある。地球温暖化の原因となるCO2の削減は、日本の場合1990年レベルのマイナス6%(京都議定書の削減目標)。そのうち、3.9%が森林の吸収目標値だ。ここにカウントされるのは、きちんと管理・整備されている森林だけ。木質バイオマスの利用がもっと広がることで、日本のCO2吸収林整備の広がりが期待されている。


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